加藤啓 手品師とトンボ船 

 JR中野駅にほど近いテルプシコールは、四十席ほどで満員の小さな小屋で、足下から伝わる電車の振動がほのかに心地良く、そしてパフォーマンスは何時ものように、さりげなく始まりました。

 加藤氏とは有隣調査団という企画で出会って以来の付き合いで、律儀な彼は欠かさずに僕の展覧会に顔を出してくれるのですが、こちらは不義理ばかりで、昨晩が久しぶりのステージでした。

 塗装の剥げかけた木片、安っぽいキラキラ光るビーズ、プラスチックの色とりどりの破片、そんな物で作られたトンボやアルルカンが、あやういサーカスを演じ、大トンボの飛翔で幕を降ろしました。北原白秋邪宗門を映像にしたような世界です。

 パフォーマンスはフランス語のJeuという言葉を思い起こさせます。ジューとは遊びの事です。
おはじきやビー玉の色に魅せられて、いつまでも飽かずに眺めていたような遊びの記憶です。

夜店でアセチレンの光に照らされた玩具に魅入る子供のように、観客は舞台に引き込まれ、何時しか時を越えます。懐かしく儚い時間がそこにありました。
 揺れるランプの下で操られて、ぎこちないサーカスを演じる時には、彼の作るオブジェは、ジョセフコーネルの作品のように、いきいきと輝いているのですが、ショーが終わるとたちまち生気を失ってしまいます。

 自分の生み出すオブジェに命を吹き込むために、彼はパフォーマンスという表現手段を選んだのでしょう。しかしそれは、彼の作品群が拙いという事ではありません。むしろそこに彼のアートの本質があります。

 水の中で照明に照らし出された夜店の宝石掬いは、溜め息が出るほど綺麗なのに、子供の手に握られて家に帰る頃には、束の間の魔法は解けて、なんともありふれた安手のガラスのかけらになってしまいます。それでもまた夜店で出会う時、ガラスのかけらは宝石に戻るのです。
 一瞬だけ輝いて、色褪せてゆく、それ自体が、加藤啓作品の美しさのゆえんだと思うのです。    

 権利の関係でショーは撮れないので、照明が落ちた後の、白々とした、なんともつまらない写真になってしまいました。祭りが終わって魔法が解けたアルルカンです。

 現代アートの多様性の一端が加藤啓氏の仕事にあります。いつか見て欲しい作家です。