ニューレトロ

 今はどうか知りませんが、少なくとも僕が住んでいた頃、日本人作家の作品はヨーロッパではほとんど評価されていませんでした。なにも、かの地の評価だけが絶対では無いとは思いながらも、僕の目にも、残念ながら同胞の作品の大半は魅力的ではありませんでした。
 雑多な人種と国籍が入り交じった展示に並んだ時に、日本人の作品はすぐにそれとわかるのです。それが現代アートであれ、古典的な作風であれ、みなとても似て見えました。綺麗で、器用で、そして、ウスイのです。ピカピカに磨き上げられたモデルハウスのキッチンみたいに。
 そこには油汚れも、染み付いた暮らしの臭いもありません。歴史が無いのです。教科書の歴史じゃなくて、昨日の、 幼い日の、父母の時代の、少し手を伸ばせばとどく距離の歴史が綺麗にぬぐい去られて。
 海外に出ると嫌でも日本を背負わされます。そして多くの作家は外国人のフジヤマゲイシャの要求に憤慨します。
 俺達だって変わらねえんだよ!ジーパン履いてハンバーガー食ってんだ、、という反応になるか、突然、禅の神秘などと言い出すかどちらかです。
 しかしそうではないのです。あなたの昨日を見せてくれ、存在の理由を示してくれと言われているのです。

 僕達は今だけで生きていられるわけじゃないのです。昨日があるから、今があります。過去を消し去ってしまえば、そこには薄っぺらな、紙人形のような自分しか残りません。悠久の彼方から昨日までの歴史がつっかえ棒のように僕のようなぺらぺらな人間をなんとか支えています。
 それが、恥ずべき記憶でも誇らしい記憶でも。

 パリの美術館の庭で、いつか自分の昨日を描こうと、手の届く歴史を描こうと思いました。いろいろ回り道をして、ようやくそんな表現になりました。
 レトロには遡行するという意味があります。自分の血と記憶をもう一度辿って行くという意味で、ニューレトロと名付けました。