カラヴァッジョ その2

 
 ラファエロ・サンティの名画「ひわの聖母」。彼は盛期イタリアルネッサンスの代表的画家です。

 美しい絵ですが、この絵には陰影がありません。否、あるのだけれど、それはあくまで、対象を立体的に見せる為の補助に過ぎず、画面全体を光がやわらかく、包んでいます。
 カラヴァッジョのそれとは、あきらかに一線を画した表現です。
 そこにあるのは、安定した、調和と美の世界です。

 カラヴァッジョの陰影は、作品に劇的効果を生みます。古典的な美の世界ではなく、ドラマティックで迫真の人間の劇が、そこに生まれます。
 題材は聖書の一節ですが、そこに描かれた人々は、ラファエロのそれとはまったく住む世界が違う人々でした。登場する人物たちは、彼の人生の周辺にいた、街のチンピラ、博打打ち、売春婦、などです。
 今の日本で言えば、六本木のクラブあたりを、描いていると思えば、遠くありません。イエスの登場に驚いているのは、ヴィップルームで、ドラッグなどやっているチンピラのお兄さん達といったところでしょうか。
 その瞬間の効果を高める為に、彼は光源を自在に動かしました。

 近代美術の歴史は、一言で言えば、画家が自主性を獲得して行く歴史でもあります。
 神のみぞしる、世界を照らす光は、ここで、壱画家の自主的判断による、画面上の操作対象になりました。
 この劇は、イエスとマタイの出会いのドラマである以上に、画家が、神と自然から、自己の主体性をかすめ取った瞬間でもあるのです。

 画家が主体性を追及し始めれば、必然的に、題材は自己になります。自然を模倣したり、神を描いて、宗教的陶酔や古典的調和を観客に伝えるメッセンジャーから、他のなにものかの伝達者ではない、自分自身の表現者としての芸術家が生まれます。
 それが近代芸術の歩みです。

 自己表現とは、能天気なナルシズムの事ではありません。
 自分は何者なのか?
 生きるに値するのか?
 何処へいくのか?
 
 ゴーギャンの有名な絵のタイトルのように、果てしなく自己に問いかける試みが、その根幹と言っていいでしょう。サリンジャーも、ドストエフスキーも、カフカも、つまるところ、近代芸術の歩みは、自己の発見であると同時に、自分を裁く行為でもありました。
 
 カラヴァッジョがどこ迄それを意識していたかは、うかがい知るよしもありませんが、彼は、友人を殺してから、苦悩の中に生きました。

 

 この絵は、旧約聖書の「ダヴィデとゴリアテ」を描いています。
 闇から浮かび上がる、ゴリアテの首を持ったダヴィデの顔は、若き日の、カラヴァッジョの顔であり、その手につり下げられたゴリアテの顔もまた、晩年のカラヴァッジョ自身でした。
 これほど悲痛な顔を、これほど悲しみに満ちた絵を、私は見た事がありません。
 後悔と苦悩に満ちた人生を、自ら裁いたこの一枚は、彼の最高傑作であると同時に、近代芸術の負い続けるテーマの重い扉を開いた、一枚でもありました。