話芸 桂米朝と高田後胤官主

 寒さのせいか、友人に近親者の不幸が続きました。そんな年代になったという事でもあるのでしょう。

 生前父は、薬師寺の高田後胤官主と懇意にしていましたので、父が他界した時、官主に大層お世話になりました。薬師寺南都六宗の一つ法相宗で、本来法事はされないそうなのですが、官主の特別のお計らいで、宗旨に反さない範囲で父を弔って下さいました。
 その後官主御自身が他界され、僕は住職のご高名は常々耳にしていたものの、個人的な面識も、その生前のご活躍の知識もほとんどなかったのですが、その時のお礼もあり、親族とともに奈良へと向かいました。

 故人との縁の薄い僕が、なんとも微妙な表情を作りながら、南都の壮麗な建築ばかり眺めていた時、桂米朝師匠が弔辞に立たれました。

 師匠と後胤官主は旧制中学校で、ともに野球部で汗を流した仲で、管主は本当は、野球選手になりたかったのだそうです。

 十代からの親友の葬儀に立ち会うのは、辛いでしょう。二人がどれほど厚い友情で結ばれていたか、師匠の言葉のひとつひとつに滲み出ていて、聞いているこちらの胸が熱くなる弔辞です。

 宗教家の葬儀はなかなか難しいものです。あまりに悲しむのも、そぐわない。それに師匠は噺家ですから、嘆くばかりとも行きません。不謹慎な話ですが、こちらとしては心の何処かで笑いを期待してしまいます。同時に二人は竹馬の友です。師匠の心中を思うと、さぞや苦しい立場であったろうと思います。

 気がつくと参列者が笑っています。師匠の話がなんとも可笑しいのです。場所柄をはばかりながらも、笑いが抑えられません。近親の方達も肩を震わせています。
 そして師匠の語り口の軽妙さに引き込まれて行くうちに、いつしか誰もが泣いていました。笑顔の名残を口元に残して、みんな泣いています。僕の頬にも涙が流れていました。

 仮設テントの切れ間から覗く南都の青い空のように、深く澄んだ師匠の悲しみが、溢れていました。

 葬儀と聞くと、今でも思い出す、悲しく可笑しい、弔辞です。あれを話芸と呼ぶのが適切かどうかわかりませんが、もしそう呼んでいいなら、僕が人生で聞いた、一番美しい一番見事な話芸でした。