消え行くものと残るもの

 身辺に色々あって多忙を極めていたので、ずっと日記が書けないままでしたが、ようやく一息つき、久しぶりの再開です。

 今年の九月の「いのちを見つめる」展の打ち合わせの時、同席した島村美紀さんから、写真のラボを紹介して欲しいと頼まれました。彼女も写真を扱う作家さんですが、材料が手に入らなくて困っておられるとの事でした。
 メーカー各社は、印画紙やその他の道具からどんどん撤退していて、写真用品は、店の片隅に追いやられてホコリをかぶっています。フィルム写真はデジタルに押されて存亡の危機にあります。
 
 それでも僕はあまり心配していません。
 写真も何かを駆逐して登場したのです。印刷技術は、木版から、石版、銅版、活版などと変化して、今やデジタル印刷に完全に取って変わられました。

 文明はいつも、前時代の文明を押し流して来たのですから、自分たちの文明ばかりが不変であって欲しいというのは、都合が良すぎるというものです。
 デジタル印刷は美しくないと言う人がいますが、それなら、木版はもっと美し
かったのです。面白い事に文明が進むほど、クオリティは下がるのです。どう
見ても、活版印刷より木版印刷の方が美しく、活字より肉筆と拓本のほうが美しい。そして、デジタルは、さらに醜い。ようするに文明は美とはなんの関係も無いのです。 

 不思議なもので、人は文化の変化より文明の変化に敏感です。テレビが登場すると馬鹿になると言い、ネットが登場すると人間関係が損なわれると言い、携帯電話が人間を駄目にすると、学者と称する人達が、毎度毎度騒ぎ立てます。彼らは文化の破壊にはおそろしく冷淡なのに、文明の変化には敏感です。
 木版や石版、シルクスクリーンなども、印刷技術として、つまり文明の一端としてこの世に産まれました。よりコンビニエンスな技術への変化にともなって一般社会からは捨てられた技術でしたが、美術家達が受け継ぎ、復活させ、いずれも今日まで残りました。
 重要なのは、技術ではなく、美意識です。美意識が残れば、その技術は残ります。
 僕たちは、銀塩の滑らかな黒の深さを美しいと思います。塗るのでも、乗せるのでもない、焼くという行為でしか出せない色がそこにあります。

 文化を残すのはメーカーや学者の仕事ではなく、僕たちの仕事です。

 僕の仕事は次世代に、美を残せるでしょうか?