ホモアクトレス
前回の日記で、演じるということを書いていて、思い出したことがあります。
我が家に猫がいました。
まだ目も明かない捨て猫を二匹、原美術館の庭で拾ってしまって、これも縁かと思い、育てました。
へその緒もついたままの新生児だった子猫たちは、危うい命でしたが、毎日数時間おきに妻と交代で起きて、注射器でミルクをあたえ、手をかけて育てると、一匹は健康に育ち、我が家のかけがえの無い家族になりました。
犬や猫を、子供の頃から育てた経験のある方なら御存知でしょうけれど、彼らは人間の子供と何一つ変わりません。
人間の子供が、箱からティッシュペーパーをすべて出してしまうように、子犬も子猫も同じことをやります。段ボールに入ったり、袋をかぶったり。鬼ごっこやかくれんぼもします。のちに我が子の成長を見ていて、つくづく同じだと感心しました。およそ幼児の興味は、人も動物も変わらない。
ところが、ある日息子は、動物がやらないことをしました。それが「ごっこ」でした。
運転手さんごっこ、ヒーローごっこ、女の子なら、お母さんごっこに、お買い物ごっこ。
小さい頃から動物のいる家庭で育ち、子犬も子猫も見ましたが「ごっこ」をしているのを見たことがない。人間の子供は、たとえば女の子なら、母親を真似て、赤ちゃんをぎこちない仕草でだっこしようとします。しかし、子犬や子猫が母親を真似て、赤ちゃんをくわえてみようとしているのを、目にしたことがありません。母親猫が持って来た獲物を、ハンティングしますが、あれは「ごっこ」ではなく、トレーニングです。「ごっこ」は演じるという事でしょう。自分以外の何者かになろうとする欲求が、演じるという事です。
我が家の猫は、六年前に死にました。動物の死を目にすると、彼らの立派さに胸打たれます。苦しみに耐えて、静かにじっと、死を待ちます。彼らは、私達人間のように抗わないのです。いつも、ありのままを受け入れて生きて、そして死んで行きます。その潔さが、動物の美しさです。
もし人間が猫だったりしたら大変です。やれしっぽが短いの、曲がっているの、大騒ぎです。毎日鏡を見て「なんでこんなところが、黒いの〜」なんて、自分の色みに溜め息をつく、お嬢さん猫がいるに違いありません。黒猫が流行ったり、虎猫が流行ったり、若い猫が、へんてこな色に全身を染めて、親猫が顔をしかめたり。果てはレインボー猫なんてのも出て来て、道玄坂あたりを闊歩するかも知れない。
人間は、あきらめられない、動物です。今の自分をそのままで受け入れる事が出来ない。何かであろうとするということは、何かではない自分への否(ノン)なのですから。
でもそれが、芸術を産みます。人間は動物に比べてあんまり美しくも立派でもないなあ〜と思うのですが、その往生際の悪さが美を産むのです。