蜘蛛巣城 黒澤明の映画


黒澤明と出会ったのは、パリのポンピドーセンター内のシネマテイクでした。
黒沢に限らず、小津安次郎、溝口健二成瀬巳喜男など、日本の名画の多くにフランスで接しました。

往年の名画を、巨大スクリーンで観ることが出来たのは、幸福な体験でした。気の置けない友と、そぞろ歩いて、パリの真ん中で邦画を観る。マレー地区に残された旧い一角のブラッスリーで、安いワインを飲みながら、時間を忘れて芸術談義に花を咲かせる、、僕にとっての黒澤はそんな日々の思い出とともにあります。

有名作はほとんど見たはずですが、なぜか蜘蛛巣城を見そびれていたので、先週末に他のタイトルとまとめて借りました。
地震やなにかで、ついついそのままにしていて、本棚に放り投げてあったものを、レンタルの期限を確認して慌てて再生。
徹底したソリッドな作りに感嘆しました。

黒澤明小津安二郎の映画を、一こまづつ、確認しながら見たことがあります。

小津は慕情を、黒澤は、、何を選んだか忘れてしまった、、。
セリフや動作、筋立てを排除して、一つ一つのコマを確認して行くと、小津の画面が、常に完璧な美意識に貫かれた、絵画の連続を観るようであったのに対して、黒澤作品は、美的に力を入れたと思われる画面以外は、散文的で説明的であったのを思い出します。
それは物語を描く映画というメディアの宿命で、それを持って批判するには当たらないのですが、ビジュアルアートを製作する者として、小津という人の真価を見た思いでした。

黒澤はストーリーテーラー
そういうイメージがこの体験から僕の中に住み着いていましたが、蜘蛛の巣城は、そんなイメージを払拭する1本でした。


場面は城と森。人の動きも抑制的で、常に必要最小限の道具立て。
劇中で、山田五十鈴が能の所作らしき動きをするところを観ると、黒澤は能の影響を受けているのかも知れません。無駄の無い抑制された表現、一般的な意味でのリアリティとは遠い表現ですが、それが、画面に常に高い緊張感と写実性を与えています。
物語は、シェークスピアマクベスをベースにしており、魔女らしきもののけが、主人公、鷲津武時に与えた予言を軸に進行します。
おそらく、このシチュエーションで物語を進める場合に、いわゆるリアルな表現だと、もののけの存在が浮いてしまう、という判断が黒澤にはあったのだと思われます。表現の抽象性が、かえって劇の緊迫感とリアリティを高めていました。

また、俳優の顔を見せる、、というようなカットがまったく無い。
アップで映すのは、それが物語の進行上必要な時に限られている。
名画の多くが、なんらかのかたちで、演技以前の俳優個人の魅力に依存してるものです。演者としては、作中の道具に過ぎなくても、同時に人気商売であり、観客は作品を見に来るだけではなく、俳優を見にも来るものです。だからたいていの映画は、観客と出演者へのサービスのようなカットがちりばめられているわけですが、それが、まったく存在しない映画でもありました。

これほど、簡潔で、輪郭のはっきりとした、美しい映画を撮れる人を、僕は他に知りません。

あらためて、黒澤の才能と技術に感嘆した110分でした。

蜘蛛巣城 [DVD]

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