この国の未来

東日本大震災は、この国を変えた」
という文章をメディアで目にします。
多くの識者が日本を見直したと語っています。 素晴らしいと賞賛しています。
ホントにそうだろうか? そんな簡単にこの国は変わるだろうか?

僕はそうは思いません。
変えるかも知れない、そうはならないかも知れない。

今、日本は空前の支援ブームです。
そう、これはブームです。
日本中にヒューマニズムが溢れています。
みんな仲間だと、、
共に頑張ろうと、、
日本はやれる国だと、、
毎日のように、メディアがキャンペーンを張っています。

でも、、僕はどうしても馴染めない。
テレビでタレントが語る
「あなたはひとりじゃない」
本当にそうか?
ひとりじゃないのか?
人間はひとりで産まれて、、ひとりで死ぬんじゃないのか?
孤独は人間の拭い難い性なのじゃないか?

頑張れと言う、、
たった30分で全てを失った人に、、
頑張れと言う。
それしか言葉が無いのだけれど、、
それしか浮かばないのだけれど、、。
わかっていてもなお、言葉が軽々しく乱舞するさまには、 抵抗があります。

メディアは、長い支援を、、と語りかけはじめました。

本当にずっと支援出来ますか?

これだけの被害の傷は、ちょっとやそっとじゃ癒えません。 経済も、人生も、、みな、果てしなく長い時間がかかります。
それをずっと支援するのは、至難です。

節電も、後2〜3年もすれば、どこ吹く風になるでしょう。
人間は、忘れる事が出来る生き物です。
「忘れずに、、」と言いながら、忘れて行くのです。
そうとしか生きられないし、 そうでなければやってられないからでもあります。
それに、僕たちは、忘れっぽい民族です。

悲惨な状況を見れば、ひとは心動かされます。
それは当たり前の反応です。しかし、それは感情に過ぎません。
感情は、、いい歳をして周章狼狽して、 食べきれないほどのキャベツを買い物かごに放り込む あの醜い行動の原理でもあるのです。 ミネラルウォーターに群がるあさましい心理でもあるのです。 街角で義援金を寄付したその同じ人が、、 スーパーで食料の買いだめに目の色を変えます。

被災者が可哀想、、
原発怖い、、
食料無くなる!

とても単純で簡単に反応出来ることです。
今、ボランティアが大量に押し寄せて、、
いいことをしたという快感と、自己満足が充足したら、彼らは日常に戻るでしょう。
勿論、無いよりはマシですし、現実に今はボランティアが必要ですが、、。

けれども、そこで終れば、この国は救われない。
何一つ変わりはしない。

この惨状を見て、、なにか出来ることがないか、
その気持ちはとても美しい。
否定はしませんが、その気持ちの美しさは何処から来るものなのか、
国民ひとりひとりが、胸に手を当てて、考えた時、
感傷を排してもなお、何かが残るはずです。
それが人を想うという事で、、
その先に公(おおやけ)というものがあります。

陛下は、皇居を離れないとおっしゃいました。
被災地では、救援活動をする人々がいます。
今も原発と戦う人がいます。
誰も、自分を優先していません。みな公(おおやけ)が先にあります。

被曝の恐れの中で戦う人。
最後まで、津波の警報を出し続けた女性。
防波堤を閉門しに走って亡くなった消防団の方達。
陛下のお姿に、、
もし胸打たれるなら、、
その感動の根本をかえりみて、
そこに、私(わたくし)を捨てた人の行動の美しさと正しさを見出して欲しいものです。

戦後の日本は、公(おおやけ)よりも私(わたくし)を大切にと教えて来ました。
日教組の教育の根幹はそこにあります。

この悲劇と困難の中で、日本人が公(おおやけ)を取り戻したら、 日本は変われるでしょう。
もし、一時の同情と感傷だけで終れば、、何も変わらないでしょう。

この先どんな仕事をしても、どんな人生を送っても、 私(わたくし)よりも公(おおやけ)を先に考えることは出来ます。
それは生き方の問題ですから。

支援も、救済も、勿論必要です。
けれども、この悲劇の経験を通じて、
私たち戦後の日本人の生き方を変えることが出来た時、 この国は本当に復興するのだと、僕は思います。