ネット放送を始めます!

僕が小学生の頃、ドリフターズの番組が流行っていました。

毎週土曜の8時から始まるこの番組を見ていないと、週明けの教室で話題から取り残される。我が家は食事時にテレビをつける習慣が無く、この国民的番組の話題が出るのが苦痛でした。

私より上の世代が、国民的な流行歌(はやりうた)が無くなったと嘆くのを目にします。歌に限らない。テレビ番組でも、その時代の流行りモノでも、国民がこぞってそちらを向くという事がなくなりました。それを悲しむむきもあるようですが、僕は良い事だと思っています。そもそも、国中が、ひとつの流行に動かされるような社会は未熟です。

テレビを観る人が年々減っています。あれだけ低俗でつまらなければ、それも当たり前ですが、コンテンツの前に、オーディエンスの選択肢が増えたというのが一番の理由でしょう。

「大衆は愚かだ、、」。
テレビ地上波を見ているのはその大衆そのもので、確かに愚者の群れですが、大衆とそうではない者が存在すると僕は思っていません。

表現はその対象とするオーディエンスの人数に反比例して質が低下します。

人間個々には、それなりの独自性があります。もし、在るひとりのオーディエンスだけの為の表現というものがあるとすれば、それは、ほとんど独白と言っていいかも知れませんが、他者と相容れない極めて個人的な嗜好や経験から来る感性を追及出来ます。それが二人のオーディエンスを想定した場合には、表現者は個人から離れて、二人の異なる個性に共通する感性に訴えかけなければならなくなります。さらに10人、、100人と増えていくと、表現は一定の普遍性を要求されていきます。
かくて、表現は、ある限界点を越えると、大量の個性に対応出来ずに、それぞれのもっとも表層的な、誰にでもわかり、受け入れられる共通項を探り当てる為にその深淵を放棄せざるを得なくなります。どんな背景を持った者にも受け入れられる表現は、単純で、幼稚ですが、それを受け入れている時の膨大な没個性の群れを大衆というのです。

地上波テレビは、1000万単位のオーディエンスを想定するというほとんど不可能ごとをおこなっています。そのために、人間の感情の表層しか触る事が出来ないのです。それが、果てしない食欲の羅列であり、馬鹿笑いであり、毎度毎度の不治の病のお涙頂戴のドキュメンタリー番組です。

地上波テレビはその構造的な問題から、この問題を逃れる事が出来ません。1000人、10000人〜の為の表現、情報というのは、宿命的に不可能なのです。

今、ネットは、その問題に一つの可能性と答えを出せるメディアとして成長しています。
個人放送は簡便で、わずかな負担だけで、かつてテレビ局が膨大な予算を投じてしか出来なかった事が出来るようになりました。使い方次第でテレビよりはるかに個性豊かな世界が広がります。

アートの世界は決して大きくない日本ですが、それでもアートに触れてみたい、もう少し知りたいという要求はきっと少なからずあるのではないかと思うのです。アートに限らず、、様々な分野で、ネットは情報発信の多様な可能性を広げられるツールです。

そこで、、近いうちに、、ゆったりと深夜にでも、、アートについて喋る個人放送をやってみようかと思いたちました。これは個人的なこころみですが、こんな小さな所から、追随する人が沢山出て来て、多くの美術家がもっとネットを意識してくれたなら、もう少しアート界から一般観客へのアピール度も上がるような気がします。

芸術ばかりではなく、あちこち寄り道しながら、、喋るつもりです。深夜の暇つぶしに見てもらえたらと思います。

あーとふるないと

ブログ右下にも僕の放送コミュニティのリンクを貼りました。

目標オーディエンスは、、100人です(笑)