文化の変質

数年来ひきこもっていた青年が、親の説得にも部屋を出ることなく、家ごと流されたというニュースがありました。
震災発生当初の溢れる悲惨なニュースの中でも、この話がひときわ僕の心に残りました。

咄嗟に僕は、数年前の荒川の氾濫のニュース映像を思い出していました。
大雨が続いて荒川が溢れ、、河川敷に住むホームレス達が流される危機に、消防のヘリが飛ぶ。
ホームレスを救出する作業が始まり、次々とつり上げられ救出される男達の映像の中、ひとり救出を拒否した老人。
瓦礫と化した手作りの家の残骸に乗ったまま、最後まで首をふって、沖へと流されて消える男の姿が、目に焼き付いて離れません。スタジオのキャスター達は、何事もなかったかのように、この映像へのコメントを避けて、当たり障りの無い防災の話をしていました。欺瞞は世間の常で、テレビはその象徴のようなメディアですから、とりたてて驚くには当たらないし、おそらく彼らの常識の範疇を越えていたのでしょう、、。

死とどう向き合うかは、同時に生とどう向き合うかです。それはその国の文化の本質に関わることです。

年間3万人の自殺者がある国。
日本文化の死へのアプローチは特異で、世界に無い独特の死生観をこの小さな島国に培って来ました。ユダヤヘブライニズムの社会では自殺は悪とされています。「神がつくりたもうた人間が」、、その与えられた命を、自ら断つというのは、神への最大の反逆とされるからです。
神を、さだめ、あるいは自然と言い換えてみれば、その思想の本質が浮かび上がります。自然は、僕たちに命を与え、そして奪います。その不条理がイキモノの宿命であり、文化とは畢竟それに抗おうとする人間の叫びです。
自ら死を選ぶという行為は、その最たるものとも言えるでしょう。
日本の武士道は、ひとつしかない命を自ら断つ行為を、崇高な精神的行為とみなして来ました。
自死は、人間の表現行為の最たるものと言えます。

自殺は弱い卑怯な者が選ぶ道という感覚は、日本の古来からの哲学には反します。常識的に考えれば、それは有り得ない。たったひとつしかない命を自ら断つ、、それを弱いと形容するのは無理があります。
武家の世なら知らず、現代社会では、建前として、自殺を肯定は出来ないでしょうけれど、、そのあたりの機微が、少し前までの日本人にはあったように思います。

病気を苦に自殺、、借金苦で自殺、、そんなニュースのコメントが流れる度に、飲み込めないものを感じていました。長い間病みついて、家族の者に負担をかけ、膨大な費用を費やし、病院のベッドでくだまみれになって死を迎えるなら、自分で死を選ぶ、、借金で首が回らず、これ以上回りに迷惑をかけたくないから、自分の始末は自分でつける、それが残された者へのせめてもの償い、、そんな気持ちで死を選ぶ人もあるでしょう。

僕の縁せきで、癌を患い、すべての治療を拒否して静かに息を引き取った人があります。それも半ばは自殺です。

アメリカで、窃盗かなにかの罪を疑われて、自殺した日本人がいました。比較的社会的地位のある方だったので、ちょっと話題になりました。しかしアメリカでは、その為に罪が半ば確定してしまったのを憶えています。自殺が悪と教えられる社会では、弱く愚かな者が自分の罪を認めて、あるいはその罪の重さに耐えきれなくて、死をもって逃げたと解釈されるからです。

違うよね、、これは抗議の自殺だよね、、そんな話を亡き父とした記憶があります。

年間3万の自殺は確かに問題でしょう、、しかし、そこには自殺を悪であると考えて来なかった日本の文化的伝統の影響もなにがしかあるように思います。命という最終手段をもちいて何かを表現し、訴えようとする、、そういう価値観がこの社会の底流に流れていたはずなのですが、、。
最近の報道を見ていると、、アメリカと変わらない感性になって来ているのではないかと感じることがあります。

自分達の歴史に根を持たない価値観の上っ面を模倣しているうちに、いつかしら、この国は死生観すらも、変質してしまったような気がするこの頃です。