「存在の耐えられない軽さ」

 「存在の耐えられない軽さ」の著者、ミラン・クンデラは、「神聖にして、犯すべからざるもののある社会は、芸術の生きる社会ではない」と語っています。
 チェコに生まれ、ソビエトの軍事介入に抵抗し、プラハの春を舞台にした小説を書いた彼の言葉ですから、これは、社会主義独裁の旧ソビエト体制を批判したものなのでしょう。

 僕は、おそらくベルリンの壁を知っている最後の世代になるのではないかと思います。
 チェックポイントチャーリーの、西側プロパガンダを見てから、東ドイツに入ると、そこは、寒々とした街でした。行き交う人は少なく、西側の猥雑な光と音の反乱から来た異邦人には、身の置き所の無い、無愛想で、底冷えがするような、無機質の町並み。東ドイツ社会主義の発展を見せつける為に、これみよがしに作られたモダン建築が、夏だというのに、冷たく乾いた空気の中で、煌めいていました。

 後年、帰国して、ベルリンの壁が壊されて行く姿をニュース映像で見た時、すぐに、あの進歩主義の残骸のような殺風景な街を思い浮かべました。
 テレビは、ハンマーで壁をたたき壊す若者達を映し出し、キャスターとやらが興奮した口調で、早口にまくしたて、、。
 クライマックスはブランデンブルグ門のあたりで、東と西の人々が、誰彼かまわず、抱き合って泣いている姿です。
 それは確かに歴史の奇跡で、そして感動的な場面ではありました。
 
 けれども僕は、世界中が民主化のお祭り騒ぎに浮かれている時に、別のことを考えていて、隣でいっしょにテレビ画面に食い入っている家内に、つぶやきました。
 「これから、中世が始まるかも知れないね」
 
 社会主義独裁にはどんなシンパシーも持ちません。おろかで、残酷な政治体制は滅びてしかるべきものだったと思っています。抑圧された東ドイツの人々の喜びには、共感も、祝辞も、惜しみません。それでもなお僕は憂鬱でした。
 
 「神聖にして、犯すべからざるもののある社会は、芸術の生きる社会ではない」
 ミランクンデラの有名な言葉が、脳裏をよぎりました。
 それは、社会主義独裁だけの問題なのだろうか。
 それが、たとえ民主主義だったとしても、自己の無謬性(むびゆう)性を疑う事の無い世界は、芸術にとって暗黒なのではないだろうか?
 
 民主主義がすべてじゃない。すべてが民主主義でもない。

 ネットから溢れる、中東各国の動乱の様子を見ながら、そんな想いが、こみ上げて来ました。
 そして、今は昔の、、ベルリンのあの厚い壁と、索漠とした東ドイツの町並みを思い出していました。